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日野宿本陣屋敷を今に伝えた人たち

本陣屋敷も支え続けた人たちがいなければ、もはや見ることはできなっかたかもしれません。

 幕末、文久3年(1863)、10年もの歳月をかけて造られた本陣屋敷が140年余りの年月を経て、今ここにあるその陰にはこの建物を支えてきた人々の存在があります。

 日野宿を何度か襲った大火、明治維新、関東大震災、にも耐え、そして迎えた第二次世界大戦、終戦間近な時、日野第一中学校あたりに落ちた爆弾の破片が屋根瓦を砕き、さしもの屋敷も大きな打撃を受けてしまいました。

 6,000枚もの瓦が使われている屋敷です。たった一枚でも割れていれば、そこから入り込む雨水は容赦なく建物を痛め続けたのでした。

 昭和26年(1951)、屋敷は宮崎家の所有となります。宮崎家は佐藤家とは敷地を隣合わせ材木商を営んでいました。

 屋敷は昭和52年(1976)にこの屋敷を利用した蕎麦処「日野館」開業のための大修理が始まるまで、20数年間もの間、これといった手は加えられずにいました。

「日野館」が生まれたきっかけは、「日野館」の御主人が日本料理の修行を終え自分の店を持つことになったこと、そしてなによりもこの建物の保存とが目的でした。

 宮崎家には3人の兄弟があります。長男は家業の材木店「マルセ」を継ぎ、次男は建築家、そして三男が「日野館」の御主人です。

 材木店、建築家、料理の専門家、修理してそれ以後も屋敷を維持し続けていくためには誰も欠くことはできませんでした。三兄弟でそれが見事に揃っていたのです。そしてもうひとり・・・。

 上田で谷工務店を営む谷さんです。谷さんは日野の生まれ、学校に通う時もこの屋敷横の小道を通って行ったそうで、大工の修行を終え、独立した後も、自然と屋敷を気にかけて見るようになっていったといいます。

 谷棟梁にはこんな話があります。仲間たちと奈良法隆寺へ研修に行った折、宮大工棟梁の故西岡常一氏をして「あの男の名前はなんというのか」と言わしめたとのこと。

2年をかけた大修理

 その谷棟梁が修理の依頼を受けた時には「いや、こりゃ治せんかな」と思ったほどだったといいます。何しろ大屋根はぼろぼろ、草まで生え、玄関上にいたってはのることさえままならなかったほど痛んでいたからです。

 屋根裏には100年分のほこりや屋根瓦を止めていた土留の土がくるぶしほどまで積もり、それをそっとどけ天井裏板を一枚一枚洗うといった作業から始まり、隙間が空いてしまった外壁を寄せるなど、徹底的に修理をしたそうです。

 なかでも大変だったのは大屋根で、屋根を支える根太は張り替え、それまでの6,000枚もの瓦はもう使い物にならず、全て特注で焼き直ししたとのことです。

 その時はずされた瓦の一部が現在、門を入ったところにある白塀に使われています。

 襖の金具なども残っているものを参考にして材質から形まで復元して戻されました。

 極力、元の材料と構造物や建て具を活かした大修理に2年、さらに厨房施設や住居部分の増設などで1年、都合3年の月日を経て「日野館」は開店を迎えたのでした。

佐藤家と日野館と蕎麦

 「日野館」が蕎麦店、それも手打ちそば店として開業した背景にはこの屋敷に蕎麦にまつわる特別な思いがあったのも一因でした。

 江戸時代、代々名主を務めた佐藤家には幕府の役人や文化人がよく立ち寄りました。そんな中に太田南畝(なんぽ)がいました。

 南畝は本名を太田直次郎、代々幕臣で徒士の家に生まれ、19歳で漢詩文「寝惚先生文集」を出し平賀源内にも認められていました。が、しかし途中で文芸活動を停止。その後登用されて大阪や長崎へ赴任しています。

 その頃から再び狂歌の創作を始め蜀山人の雅号で名声を高め、佐藤家を訪れた時には文人としても重きをなしていました。

 文化6年(1809)3月、仕事で巡回中の南畝は佐藤家で手打ちの蕎麦切りを振る舞われました。南畝はその美味しさに痛く感動し、「蕎麦の文」という小文を書き上げ、佐藤家に残していきました。

 その「蕎麦の文」とその時使われたせいろが佐藤家には代々受け継がれてきていたのです。

 そして佐藤家にはもう一つ。それは水です。勝手脇に掘抜かれた井戸からは勢い良く井戸水が噴き上げていたそうです。

 日野七生(ななお)中学校の敷地には同じような噴出井戸が今でもみられます。これは台地や丘陵から川に向って流れる地下水脈のなせる技で、日野の低地ではひと昔前まではよく見られた井戸です。

 佐藤家の水はとてもおいしかったといいます。蕎麦の味もさらに引き立てたことでしょう。

 昭和20年代まで、俊正(彦五郎)の孫にあたる佐藤仁氏のころまでその勢いは衰えず、庭にあった池にもこの井戸水を利用した噴水があったそうです。

用水の上を下った部屋

 本陣屋敷ができて140年、建設を始めた時から数えると150年の月日が流れてきました。

 その間、維新を始めとする歴史の変遷をくぐってきた屋敷ですが、屋敷自身の大きな変わり目は明治26年(1893)にやってきました。

 その年、日野宿は行政的にも大きな節目を迎えた年でもありました。それまで明治になってから神奈川県に属していた他の多摩郡の村々と一緒に東京府に移管され、それまでの名前も「日野宿」から「日野町」に変わったです。この時、佐藤俊正(彦五郎)は初代の町長になっています。

 それにも増して大きな出来事だったのは、宿場の東を襲った大火事でした。

 この火事で佐藤俊正(彦五郎)の四男、彦吉が養子となって家督を継いでいた有山家も被災を受けました。

 この時、佐藤家では有山家に対して「部屋を送る」という方法を採ることにしたのです。

 明らかな時期は判りませんが、佐藤家屋敷の南西部分の部屋が有山家に移築されました。

 佐藤家の裏には日野用水が流れ、敷地はそこまで続いおり、こちら側にも長家門がありました。用水側からも出入りは行われていたといい、姉の嫁ぎ先へおもむいた歳三も利用していたことでしょう。

 その用水の上を利用して屋敷を移したのだといいます。

 これらの部屋は明治天皇が休息されたこともあり、屋敷の中でも特別上等な部屋だったと言います。この移されていった部分は現在でも有山家で大切に使われてます。
※有山家は非公開です。

保存も仕事だった日野館

 昭和55年4月8日、「日野館」は開店しました。

 この開店は建物の保存も目的としていたので、よく、「『土方歳三が昼寝をしたといわれている部屋や市村鉄之助が匿われた部屋などを公開してくれ』、と要望されたりもしたが、とても店と両立できるものではなかった」とのことです。

 それらの部屋はプライベートで使用していたこともありますが、建設当時からの襖や戸袋などがそのまま使われており、破損が何よりも心配だったとのこと。個人でできる範囲として後世に残すためには最良の方法が採られていたのです。

「日野館」から「日野宿本陣」へ

 平成15年10月30日をもって本陣屋敷で経営されていた「日野館」は幕を閉じ、店を神明上に新築し、新たな「日野館」として一歩を歩み始めました。何よりもこの屋敷を世代を超えて残しておきたい、という宮崎さんの決断でした。平成16年にはNHK大河ドラマ『新選組!』に合わせて一般公開され、半年の修理、改築をへて平成17年春「日野宿本陣」として永く歴史を伝え続けることとなりました。

天然理心流佐藤道場跡碑

 駐車場に面して立つこの碑は「日野館」が開業する際、彦五郎の曾孫にあたる当時の佐藤家当主が、蕎麦店の経営者宮崎氏にこの地を後世に伝えるためにと、建立を依頼したものです。

 碑文は土方康氏、土方歳三直系,土方家当主と刻まれています。

 惜しくも氏は「日野館」開店直後、昭和56年に逝去されてしまい、昭和58年に建立されたこの碑も目にすることはありませんでした。

 「蕎麦を食べに来てくれたくれた人におれが新選組と建物について説明するんだ」。と楽しみにされていたと聞きます。
 
 「日野館」で使われていたパンフレットには氏の談として天然理心流佐藤道場と新選組についての紹介が掲載されていました。

明治天皇行幸の碑

 明治天皇は明治13年の行幸、14年の狩猟と2年続けて佐藤家で小休止をとっています。この碑はそれを記念するもので「明治天皇日野御小休所趾及建物附御膳水」と刻まれています。碑の隣にはその時の井戸も残されています。

05/03/21 16:04

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