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新選組のふるさとひの

新選組のふるさと「日野」の由来について

 

物語りはここから始まった

 新選組副長・土方歳三が生まれた地は武蔵多摩郡日野郷石田村。六番隊隊長・井上源三郎は日野宿北原、近藤勇、沖田総司らが剣術の腕を磨き、新選組に大きく関係することとなった天然理心流佐藤道場は日野宿問屋(日野本郷名主)・佐藤彦五郎が自宅に開いた道場でした。

 いずれの場所も現在は東京都日野市に属しています。

 日野は都心から30分、ちょうど東京都のへそに位置している市です。

 日野の人口は17万強、この40年あまりで10倍以上に増え、並行して典型的な田園が広がっていた純農村だった町も今では典型的なベッドタウンの様相を示しています。

 日野の地が歴史的に大きな転換期を向えたのは、このベッドタウン化だったことはいうまでもありませんが、この地で人々が寄り添い生活できるようになり、共同体として、今の「日野」の基礎ができたきっかけは、江戸時代初期、甲州街道の宿場町となったこと、明治になるまで多摩の他の村々と同様に幕府の直轄地となっていたこと、にあります。

 日野から江戸までは十里(約40㎞)、一日の距離です。台地からは今も都心が見渡せるように、江戸の町がはるかに望めたにちがいありません。

江戸での出来事も日をおかずして、伝わってきました。

土地の記憶

 日野は多摩川とその支流である浅川に挟まれ、川によって刻まれた侵食台地と川沿いの低地、そして高尾の山から三浦半島へと続く多摩丘陵と大きく3つの地形に分かます。

 低地では江戸以前から用水路が開かれ、稲作が行われ、台地では畑作、丘陵の雑木林からの落ち葉からはたい肥と燃料を得ていました。

 特に低地の稲作は「多摩の米蔵」ともいわれる石高を誇っていました。多摩川の水は洪水という試練も与えましたが、その清流は日野に潤いを与え続けてきたのです。

 この土地の力を利用した農業を中心にした営みは昭和30年代までは当然のごとく行われていた風景でした。

 新選組を生み、参加し、支えた人々はここで何を見ていたのでしょうか。

-人びとの想い

 新選組は、京都市中見廻りとして池田屋事件などで目覚しく活躍し、全国に武名を響かせました。

 日野の人びとは、佐藤彦五郎をまとめ役として新選組の活動を物心両面から支援し、甲陽鎮撫隊が江戸へ進軍する東征軍を迎え撃った勝沼戦争には「春日隊」を組織し、最新式の鉄砲を用意して加わりました。

 このため日野は東征軍から「新選組のまち」「賊軍のまち」と言われ、しらみつぶしの大捜索を受けた厳しい歴史も持っています。

 しかし、佐藤彦五郎を中心に近藤勇・土方歳三を顕彰する「殉節両雄之碑」を建立するなど、彼らの姿を誇りをもって語り継いできました。

 農民の子に生まれながら剣をもって幕末の激動に挑み、後世に語り継がれる活躍を果たした後、節に殉じて散っていった彼らを「賊軍」の汚名を被ったままに埋もれさせるには忍びなかったのではないでしょうか。

 こうした経過から、佐藤彦五郎を中心とした日野の人びとと新選組隊士たちとの交流は新選組の消滅後も続き、日野市には現在でも数多くの書簡や遺品が貴重な資料として残されているのです。

日野新選組同好会

 新選組のふるさと日野には、新選組を通して親睦を深めている「新選組同好会」が結成されています。その設立目的は、新選組の歴史と情報を地元日野市民と共有し、新選組に関わる他の団体と情報交換を図り、もって「新選組」のッ存在を後世に語り継いでいくこととし、新選組に関する勉強会、講演会、映画上映会、史跡見学などを開催しています。

 また、殺陣やパレードが好きな会員が日野市(ひの新選組まつり)はもちろん、函館(五稜郭祭)、北区(滝野川新選組まつり)、京都(ええじゃないかin四条大宮パレード)、会津(会津秋まつり)、よこすか開国祭、高知県のよさこいまつり全国大会などのパレードに参加しています。

「日野新選組同好会」公式サイト

 
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